上智大学法学部 Sophia University Faculty of Law

覆された裁判員裁判による死刑判決 ―熊谷6人殺害事件―
②アメリカの陪審制度からみた視点

国際関係法学科
教授 岩田太

 市民から選ばれた裁判員が参加して下された死刑判決が、プロの裁判官だけからなる上級審で破棄された最近の事例に対しては、疑問が投げかけられています。例えば、妻子3人を殺害された男性の言葉によりながら、「遺族『納得できぬ』 高検、上告せず・・・6人殺害」(朝日新聞2019年12月20日朝刊)などの声があがっています。何の落ち度も理由もなく突然家族を失った人にとっては当然の感想であり、多くの市民が共感するのも不思議ではありません。

日米の制度の違い: 市民の関わり方と死刑の決定手続

 ここでは、100年以上前から死刑を科すかどうかの実質的な判断を市民が行ってきた伝統を持つアメリカの陪審制度との比較から少し述べます。

 アメリカの陪審制度と日本の裁判員制度には、いくつかの重要な違いがあります。国民の司法参加という抽象的な理念の部分では共通しますが、日本の制度は基本的には大陸型の参審制度をモデルに作られました。例えば、陪審制度では、有罪無罪および有罪の場合の死刑判断を、市民が単独で、かつ、基本的に全員一致で下しますが、裁判員制度では、有罪無罪と量刑の双方をプロの裁判官と一般市民が合同して基本的には多数決で判断します。

 また陪審制度の下では、無罪評決や死刑を否定した判断を検察側が上級審で争うことはできない、いわゆる片面的な構成がとられています(一般的に、国家が市民の自由や生命を奪う以上、誤っても無辜を処罰しないために被告人に有利な形で手続きを形作ることを呼ぶ)。アメリカでは、死刑制度は基本的に州ごとの制度になっているため、地域差も大きくなっています。 現在では過半数の州(32州)が死刑廃止ないし死刑を10年以上用いていない状況です。死刑の決定手続きについて、有罪無罪と死刑の可否を決める手続きを2つの段階で分ける在り方や、死刑判断に必要な考慮要素について詳細に手続を定め、かつ、一般の刑事事件以上に手厚い手続き保護を定めるなど、日本の制度とは大きく異なります。

 以上のような重要な差異を認識しつつも、一般市民が関わる判断をプロの裁判官が上級審で覆す点については共通性があるので、その点に焦点を絞って述べます。ここでの題材となっている事件に対する批判の一つは、裁判員が悩み抜いた死刑の判断が覆されたことにあり、そうであればわざわざ健全な社会常識の反映のために一般市民を半ば強制的に裁判に関与させる意義がないのではないかという疑問です。

合衆国の陪審審理を受ける権利と死刑判断

 アメリカでは、連邦憲法上の保障として、第6修正による陪審審理を受ける権利が保障されます。陪審審理を受ける権利は、一般の刑事事件では、有罪無罪の罪責認定のみにかかわるもので、量刑は裁判官単独でなされます。しかし重要な例外があって、死刑事件では逆に陪審が、死刑を科すべきかどうかも判断することになっています。

 死刑判決がなされると、通常州の最上級審(最高裁)で自動的に再審査がなされます。被告人に無罪の評決がなされた場合や死刑が否定された場合には、日本のように検察側から上訴することは許されません。これは、警察・検察という膨大な人的・物的資源を有する政府が努力しても市民からなる陪審を説得できない以上、それ以上継続して刑事手続に晒し続けるのは不公平と考えるからです。

 州最高裁での再審査の目的は、死刑は刑罰とはいえ、国家が市民を殺害するという取り返しのつかない種類の判断であるために、手続上の誤りの存否の確認に加え、公平性の観点から本来死刑が科されるべきでない犯罪者に誤って死刑が科されることを予防するためです。またアメリカの死刑制度には、通常の刑事事件にはない手厚い手続保護が認められている結果、非常に複雑になっていて、適用を誤る可能性が非常に高くなっています。このようなアメリカの姿勢は、日本の最高裁判所が、死刑を究極の刑罰としてやむに止まれぬ場合に限定されるべきとして、公平性の観点などから慎重に審査を行ってきた姿勢に通じるものだと思います。

 実際、アメリカにおいて一般市民から選ばれた陪審による死刑判決が事後的に覆されるのは、驚くほど高い割合です。ある調査によれば、死刑判決のうち約7割に重大なミスがあったとして、上級審などで覆されました。 ちなみに日本の裁判員裁判の判決が破棄される割合は非常に低くなっています。量刑に限ると2017年の破棄率は7%弱です。プロの裁判官単独の判決の破棄率と比べると同等か低くなっていますので、市民が関わっていることだけが破棄の理由ではないようです。

 いずれにしてもアメリカでは、日本以上に市民によってなされた死刑判決が事後的に覆されていることがわかります。死刑が上訴手続の繰り返しによって過度に処刑が遅延していると批判する論調も強いのも事実ですが、2000年以降DNAの分析技術の発展によって多くの冤罪が明らかになり、その中に死刑事件も相当数含まれていたことによって、流れは大きく変わりました。

 このような第1審の陪審審理と事後的な上級審で求められる機能が異なるのは、第1審の陪審公判では、犯罪の状況を示した現場写真、被害者遺族の証言、さらに被告人の所作や証言、情状証人などを直接的に見聞きした上で、同輩に対して死刑を科すかどうかという事件の個別性に焦点が当たっています。死刑、つまり人を殺すべきかどうかという判断は、客観的ないし科学的に判断の妥当性を担保できない種類のものであるため、陪審に求められるのは、社会の常識的判断を示すことで、それこそが陪審の強みだとされています。そのため量刑相場をあえて陪審には伝えず、その意味では事件間の公正さを犠牲にしても、特に個々の事件の個別性にあくまでもこだわるのです。

 これに対し、上級審では、上記のような詳細は手続きルールが順守されていたかどうかのみならず、他の同種の事件との公平性という別の観点からの検討が行われます。奴隷制の歴史を持つアメリカでは、刑事司法においても依然として人種差別が深刻な問題であるため、公平性の観点からの同種の他事件との再審査が特に重要であると考えられています。何百年という歴史を持つ陪審制度の国においても、被告人に有利か不利かを検討せずに一律に、市民の判断を尊重することが重要とは考えられておらず、市民の関わった判断が事後的に上級審で判断されたことをもって、市民の司法への関与が意味をなさないとはされていないことがわかります。

大切な外国法からの学び

 アメリカにおいて犯罪問題は深刻です。人口の差を考慮しても、殺人件数だけでも少なくとも日本の数倍のレベル、強盗などのその他の凶悪犯罪であればそれ以上です。先進諸国の中で群を抜いて治安のよい状況の中、日本の裁判員制度では、死刑の可否についても裁判員および裁判官の全員一致は求められず、かつ、公判も一般の刑事事件と死刑事件を区別し、死刑事件については特別な手続(例、死刑事件の弁護に特化した弁護人制度、検察官上訴の禁止など)を保護する法制も存在しません。もちろんこれらの日本の特徴が必ずしも不合理な結果を生んでいるとは言い切れない面もありますが、死刑という究極の刑罰の運用について、日本は同種の問題が全くないと言い切ることは困難です。

 制度や背景の違いにも十分考慮しながらも、このような形で他国の制度と比較してみると、日本の置かれた状況が特殊なものか、また他の国でも共通する課題なのかなどについて冷静に考える機会が得られます。日本の法制度がもともと海外の国をモデルとして作られたこともありますが、日本の法制度の成り立ちを学ぶ意義だけではなく、現代的な問題についても外国法や国際法など外の視点を学ぶことが重要だと日本の多くの大学では考えられています。